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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「人生の土台」
マタイによる福音書 7章15~29節
関口 康
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)
今日の箇所は、主イエスの「山上の説教」(マタイ5~7章)の最後の部分です。
「偽預言者(英語 false prophet)への警戒」(15節)というテーマは、旧約聖書にも新約聖書にもありますし、聖書外文書、特に『十二使徒の教訓(ディダケー)』にも出てきます。
旧約 |
イザヤ9章14節 イザヤ28章7節 エレミヤ6章13節 8章10節 エレミヤ23章11節 エゼキエル13章3節 |
「偽りを教える預言者」 「濃いぶどう酒を飲んでよろめき迷う預言者」 「利を貪り、人を欺く預言者」
「汚れた預言者」 「自分の霊の赴くまま歩む愚かな預言者」 |
新約 |
マタイ24章11、24節 使徒言行録13章6節 使徒言行録20章29節 ローマ16章17節 Ⅱテモテ3章5節 Ⅱペトロ2章1節 Ⅰヨハネ4章1節 黙示16章13節、19章20節、20章10節 |
「偽預言者」 「バルイエスという預言者」 「群れを荒らす残忍な狼ども」 「学んだ教えに反して不和やつまずきをもたらす人々」 「信心を装いながら信心の力を否定しようとする人々」 「異端を持ち込み贖い主を拒否する偽教師」 「偽預言者」 「偽預言者」 |
他 |
十二使徒の教訓(ディダケー)11章7~12節 |
下記参照 |
「羊の皮をまとった狼」というイメージは旧約聖書にもラビの教えにも見られません。しかし、ユダヤ人が羊の群れのように牧されているイメージは旧約聖書に由来しており(詩編100編3節、エゼキエル書34章23節など)、「貪欲な狼」というイメージも同様です(イザヤ書11章6節、65章25節、エレミヤ書5章6節、特にエゼキエル書22章27節)。
気になる問題は、「狼」は教会の外から来るのか、はじめから教会の中にいるか、です。どちらとも言えそうです。
「あなたがたのところに来る」と言われていますので、外部からの侵入者のようでもあります。しかし、「羊の皮をまとう」と言われると、内部の人を装っているようでもあります。「貪欲な」という形容詞は、教会に分裂をもたらす私利私欲を指している可能性があります。
この人々は、目の前の問題を徹底的に分析し、預言者であることを装いながら「独自の」意図を突きつけてきます。
『十二使徒の教訓(ディダケー)』11章5~12節(佐竹明訳、使徒教父文書、聖書の世界、別巻4、新約Ⅱ、講談社、1974年、25頁)に興味深い記述があります。
「偽預言者」かどうかを見破ることができる「特徴」があるというのです。それは次の通りです(*通し番号は関口による)。
①滞在は1日、長くて2日であるべきなのに、3日滞在する(5節) ②パン以外は何も要求すべきでないのに、金銭を要求する(6節) ③食事を注文して食べる(9節) ④真理を人々に教えるが、自分は実行しない(10節) ⑤金銭あるいは他の何かを要求する(12節) |
『十二使徒の教訓(ディダケー)』が書かれたのが、西暦1世紀末から2世紀初頭までの間です。キリスト教会の歴史の最初から「偽預言者」がいたことが分かります。
「預言者」とは「神の言葉を預かり、民に伝える者」です。現代の牧師・説教者たちにとって、決して他人事ではありません。
「あなたがたはその実で彼らを見分ける」(16節b)というのが、主イエスのお考えです。茨からぶどうが採れることはないし、あざみからいちじくが採れることもありません(16節b)。良い木が悪い実を結ぶことはないし、悪い木が良い実を結ぶこともありません(17節)。その人の行いと言葉の結果によって正体が暴かれます。
厳しい言葉が続いていますが、あくまで「偽預言者」の見分け方に関することだと理解する必要があります。教師の責任は重いです。これを一般論にして、だれかれ構わず当てはめていくと、息苦しくなる人が続出するでしょう。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21節)。
「主よ、主よ」と2回言うのはユダヤの慣習で、名前を二重に唱えることを、相手に対する敬意の表現としていました。しかし、主イエスが求めておられるのは、ご自身がちやほやされることではなく、ご自身の教えを聴く人々が神の御心を行うことです。
山上の説教は、全く守らなくても何の問題もないと言ってよいような教えではありません。途方もなく難しい教えが続いているのは確かです。しかし、「この誰にも守ることができない教えを守れないこの弱いわたしたちの身代わりに、主は十字架の上で死んでくださいました。だから、わたしたちは山上の説教の教えを守る必要はありません」と教えるのは間違いです。
山上の説教の教えを完璧に守れる人はいないでしょう。主イエスは完璧を求めておられません。1ミリでも、1秒でも、守ろうとする思いを求めておられます。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台にしていたからである」(24~25節)。
「これらの言葉」が指しているのは、主イエスの「山上の説教」全体です。「人生の嵐」の比喩だと理解すべきです。この嵐の中で倒れずにいられるのは「土台」(または基礎 foundation, basis)がしっかりしているかどうかにかかっているという教えです。
「人生の土台は無くてもいい」でしょうか。「土台など無ければ無いで、流されるまま、壊れるまま。人生などそんなものだ」と悟られている方もおられるでしょう。「少なくとも宗教が土台になると思えない」と感じておられる方は多いかもしれません。
「宗教こそ人生の土台になる」と考える方がもし多ければ、教会にもっと多くの人が集まるでしょう。「土台にならない」と思っておられるから、教会の存在に意味を見出せない方が多いのでしょう。教会の責任を痛感します。
「人生の土台」があるということを主イエスが教えておられます。しかし、「人生の土台」なるものをわたしたちがどのようにして知ることができるかという問いの中で、「偽預言者」が教会史の過去・現在・将来を通して存在し続けてきたことの意味を考えることが大切です。
わたしたちに求められるのは「真偽・真贋を見分ける力」です。
(2025年7月27日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)